puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

続・私的な問題意識(とやりたいこと)

すべての変革が現状の否定である以上、それをやり遂げるうえで、挑戦と苦難とは避けて通れない。現状にはそれを形作る「合理」がある。その均衡を破るのは容易なことではない。

 

苦難が必然であるならば、追求すべきは、その軽減やそこからの逃避ではなく、変革から獲得できるものの方である筈だ。「どんな問題を解くのか」という問いに対して、我々はもっと真剣にならなければならない。

 

その問題の解決は社会の厚生の拡大に繋がるか。歴史の転換点に立ち会えているか。対峙する相手は、自身の稀少な人生の時間を捧げるに値するか。主観的な価値定義を以て初めて、「合理」の枠から抜け出すことが可能になる。

  • 「価格がつくものには等しくそれだけの価値がある」は誤っている。そこから導かれるのは、ノイズを多分に含んだ市場の下での記述的な営みでしかない。社会を形作る人間に求められるのは価値を定義することである。それは規範の提示という形をとる。
  • 「流行りのテーマ」は数年程度で入れ替わり、装いだけ変えてまた数年後には戻ってくる。業界の抜本改革や社会の最適化を謳う技術群がその通りに変化をもたらしたことが果たしてあっただろうか。歴史と経済性に依拠して見極める必要がある。
  • 「変革」という概念自体に肯定的な意味づけが為されるようになった結果、現実のtrade-offを直視する胆力を欠きながら、漠然と正義の側に与していたいだけの人が決して少なくない。その人の掲げる構想は本人が心から切望したものか。

 

既存事業の、そしてそれが位置する市場やValue Chain全体の、適正化と高度化とに取り組むべきだ。そうした問題解決を成し遂げることと、そうした問題解決に取り組める人たちと信頼関係を築くこと。このふたつこそが、変革に伴う苦難に見合う報酬だと考えている。

私的な問題意識(とやりたいこと)

設計行為とは本来的にIterativeなものである。2000年余りの歴史を持つ建築設計の世界では、設計は、基本計画・概念設計・詳細設計・生産設計といった多段階から構成されており、各段階を経る毎に解像度を高め、後続の生産へと繋げる。新興のSWE業もこれに倣って方法論を改め、WaterfallからAgileへと発展を遂げてきた。
 
一方の我々、経営コンサルティング業界は、建築設計に比べて遥かに歴史が短く、SWEに比べて遥かに規模が劣ることから未成熟であり、近年まで「戦略-実行」という、設計の規範から大きく逸脱した工程区分に拘泥してきた。その結果、「戦略」と「実行」との間には未だに隔絶があり、本来そこにあるべき工程自体が未分化である。建築設計になぞらえて捉えるならば、「詳細設計」「生産設計」に、適切な価格をつけることができていない。適切な価格を主張するに足る人材と方法論を供給できてもいない。
少なくとも「戦略」のプラクティスは、「基本計画」か、精々「概念設計」までしか手掛けられておらず、「詳細設計」「生産設計」といった後続工程を軽視し、存在とその価値を正しく認識できていない。
 
「詳細設計」「生産設計」の工程は、本来、上流で描いた構想を損なわずに業務、組織、そして経営の動態に落とし込む、過酷な工程である。そこでは、①Iterationによる構想の修正と本源的価値の追求、②経営者との対峙、③専門知の動員と統合、が求められる。
 
① Iterationによる構想の修正と本源的価値の追求:
工程を進むほど、構想は現実の制約に直面し、当初の精彩を失う。現実を形成する諸力と機序とを解き明かし、当初構想に込められた本源的な価値を明らかにして、構想自体を洗練していく。構想と現実との間の相克を司る知的負荷は極めて高い。
 
② 経営者との対峙:
追求に値する提言をする。重大な責任を負う・果たす。個として信頼を得る。相手以上に相手のことを考えて耳の痛い話をする。対話を通じて本源的価値を共に究明する。則ち、経営者のパートナーとして当たり前のことを、高い水準で実践することに尽きる。技術的・人格的な陶冶が求められる。
 
③ 専門知の動員と統合:
技術の裾野が広く、その進歩の速度も加速の一途を辿る現代、改革を構成するすべての処理をひとりで担うことは出来ない。一方で、顛末に対する責任はひとりでしか負えない。専門知の体系を理解し、問題を分解して適合する専門知を特定・動員し、総体としての成果創出に向けて統合し切る。
 
これらを担える人材を輩出できるプラクティスを作り、高い品質のサービスを提供することで、詳細設計・生産設計の市場の価格を適正化したい。経営コンサルティング業界を、それが本来あるべき姿に近づけるために、必要なことをやっていく。

「きつい上司」vs「やさしい上司」

若い優秀なマネージャーから「ジュニアに既に出来ることだけをやらせて褒めそやし、一切のネガティブフィードバックをしない「やさしい」マネージャーが人気を集め、適切なチャレンジを与えたうえでネガティブフィードバックを通じて成長を支援するマネージャーがむしろ忌避されている。私自身は「あなたはきつい」「もっとやさしい上司の下で働きたい」と言われた。ジュニアや組織のことを真面目に考える自分が馬鹿みたいに思えてきたので、方針を変えたいと思うのだが、どうすべきか?」と相談された。

 

まず、ネガティヴフィードバックとはそもそもの内容が何らかの現状否定なので絶対に心地良くはない。しかし、それと独立に、受け取りやすい伝え方を追求することはできる。更に内容面でも、問題意識の涵養にあわせて受け取り易いタイミングで提供することができる。「きつい」と言われる場合に、それが純粋にそのタイミングで直面して然るべき内容面についての感想なのか、不純物則ち、伝え方やタイミングについての感想なのかは慎重になるべきと思う。前者であれば、そんなことを主張する人は相手にする必要がないが、仮に後者なのであれば、そこにはまだ改善する余地がある。水が低きに流れることを嘆くのは、全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない。

 

他方、フィードバックをする側にそうした労を強いるということは、フィードバックされる側にはそれに見合うだけの価値が求められるということを意味する。高品質な環境を求めるのであれば自身も高品質である必要があるし、逆に、低質なものには低質なものがあてがわれる。このような「質」とその背景にある「選好」の多様性こそが市場経済の良いところで、市場に参画する人たち全員の効用を最大化するように、お互いの選好が合致するまで流動性を高めるべきと思う。

 

なお、僕はこの業界で考え得る限り最高のフィードバック環境を提供しようと思っている。チームに所属する人たちにはそれに見合う姿勢を求める。

メンターの行動規範

「メンタリング」は、「教える-教えられる」というある種の権力構造が容易く手に入ってしまう営みである。そうした権力性を(自分でも自覚しないうちに)好んでメンタリングに執着する人が一定数いるように思うが、自分を厳しく律しなければ、自身を含め、関わる人すべてを不幸にする。以下の3点を肝に銘じるべきと考えている。

1.自身の問題と捉える
後進の育成が役割として与えられている以上、そこで問われているのは、ジュニアの人格と技術ではなく、育成を施す側であるメンターの人格であり技術である。

2.職能及び職業倫理に依拠する
全人格的・全領域的な優劣などというものは現実に存在しえない。他方で、職能及び職業倫理の範囲においては、明確な尺度が存在し得る ※「ダイバーシティ」の錦の御旗の下で曖昧にされているが、これは多元的な価値の尊重と両立し得る。

3.そのうえで、そもそもが分不相応な使命だと心得る
メンティーの心技体は個体差が非常に大きく且つ流動的でもあるため、徹底的な最適化などできないし、また、多くの場合メンター自身も未成熟である。そもそも人を「育てる」などと軽々しく語るべきではない。
また、自律的な個人同士の営みである以上、相手の人生への干渉には敬意と恐怖を持って臨まなければならない。

「メンタリング」に対する認知が高まり、その普及が進む一方で、技術や形式ばかりが先行して規律を欠いた実践が広まるのではないかという不安を抱いている。一日も早く形式的な普及が完了し、規律にまで踏み込んだ質の面での競争へと移行することを願っている。

「適切な問題」の発見

以前の投稿で、「問題解決という営みは、「適切な問題」の発見も射程に入れる必要がある」と書いた。そしてその問題解決を職能として修めるのであれば、問題発見についても形式知化し、可能な限り再現性を高める努力が必要だと考えている。

たしかに「適切な問題」を特定するアルゴリズムを組むのは困難だろう。しかし、最低限満たすべき要件や思考手順というものは、クライアントの置かれている固有文脈とは独立にある程度明文化できる筈である。抽出された任意の「問題」に対して、それが「適切な問題」かの評価の効率と安定性を高めることはできる。

 

1.基本は「最適化」

「問題」は「事実認識」と「価値基準」の照合から導かれ、メカニズムやリソース制約を加味していくことで現実に刈り取れる効果が低減していく。

企業活動は「外部環境に対する内部環境の適応」なので、我々が検討の中で語る「効果」は「最適化余地」と捉え直すことができる。従い、「広義の最適化計算を誤りそうで、且つ、最適化計算を実行できそうなところ」を抽出しようと心がけるべきと考えられ、具体的には、以下のいずれかの外形的特徴を持つ筈であ。

  1. 非線形な構造を持つ
  2. 変数が多い
  3. 変数の変動幅・分散が大きい

 

2.「変化」を掛け合わせる

但し、①-③のいずれも平時であれば基本的には潰し込まれている(少なくとも全体最適にはなっている)場合がほとんどであり、一見最適化余地があるように見えたとしても注意する必要がある。

例えば、相手が職能制組織の長である場合、職能制組織を横断した視点を提供することで最適化を促せる可能性がある。一方で、収益責任を負う事業部長クラスになると、市場と自社組織との適合、及び、職能性組織間の最適化については現有の体制を前提とすると既に追求しきっている場合が多い。

故に、「平時」の裏返しとして、「PESTのいずれかで、大きな変化が生じていること」を追加の条件とすべきと考えられる。

例えば、「スマホが普及したことで購買行動をユーザー個々人に最適化できるようになった」、「コンピューティングリソースが廉価になったことで大規模演算が回せるようになった」、「DXやカーボンニュートラルが共通言語化されたことで当該テーマでの資金調達/予算獲得が容易になった」、等が挙げられる。

「何故既に為されていないのか?」に対する答えが「怠惰だから」「考えが足りないから」を言い換えた表現になっていないかを自分に問うてみると良い。もしそのいずれかになってしまっている場合、一見可能性が大きそうに見えても、掘り進めていくうちに効果の低減率は確実に大きくなる。

 

3.条件を充足するよう「系」を拡げる

上記のような「最適化の難易度」と「変化の有無」の二つの観点で、最適化余地を探索することになるが、探索対象となる「系」の中に両者を満たすものが見出せない場合、「系」を拡げることが必要になる。ここでいう「系」は「①ドメイン」と「②時間軸」から成り、それぞれを変数と見做して操作し、最適化余地を考える。

ドメインを拡げる;
たとえば、ある製造販売事業の提供価値の定義が問題となったときに、「製造販売だけではなくてデータを用いたソリューション提案、更には顧客のビジネスプロセスの取り込む」などのように問題を再定義することが当たる。ただし、範囲の経済性が高い水準で見込まれる/拡げた先で先行者に優る論理が説明できるかを問わねばならない。

②時間軸を拡げる;
今この時点ではどうしようもなくても、時間軸を伸ばせば、何らかの投資とそこからの効果の刈り取りを期待することができる。但し、長期を見据えたデカくて正しい投資には、取締役会の意思決定能力が高く保たれているなど、いくつかの条件を満たす必要があり、そこまで考慮しないと絵空事になる。また、市場の単位で見れば長期的に収斂する方向性(トレンド)に関して見解の相違が生じることは殆どなく、トレンドを認識した上でどのようにその追求を実現するかが実質的な論点になるため、トレンドの提示だけで勝負しようとすると痛い目を見る。

 

4.それでもどうしようもなかったら、、、

以上のようにジタバタ足掻いてみても取り組むに値する最適化余地に仕立てられない場合、前提している制約条件を取り払う(「価値基準」もしくは「リソース制約」を改める)か、さもなくばそもそも問題解決の対象自体を変える(「事実」を改める)ことになる。

このように書くと残念なことのように思えるが、以上のプロセスを即座に実施し、そこから次に取るべき行動を導出することができれば、本来時間を割くべき「適切な問題」に正しく時間を割ける確率は上がると思っている。

嫌いな言葉①:「イシュー」

とある名著では、「解くことで効果が大きく、解くことができる問い」を「イシュー」と呼んで、こいつについて仮説検証をサクサク回そうぜと論じている。ここでいう「イシュー」とは、詰まるところ、「見解の統一されていない点のうち、効果と実現可能性の観点から論ずるに値するもの」くらいの意味になる。

この考え方が多くのビジネスパーソンに普及したこと自体は素晴らしいが、 「課題(Issue)」と「論点(Issue at hand)」とが癒着することでいくつか弊害もあった(気がする。不器用な僕は以下の3つで習熟が遅れた)。

  1. サクサク回そうと説いている「仮説検証」を、前掲の「課題」だけでなく「問題」「打ち手」に適用して良いものかよく分からない。(まあ普通に考えれば適用しても全く問題ないのだが、「それなら「課題(Issue)」と混同しやすい語を使わんといてくれ。紛らわしい。」という気がする。)
  2. 「それはイシューではない」との指摘がなされた際、見解が統一されていないのか、効果と実現可能性に関する評価が異なるのかがよく分からない。
  3. イシューという言葉を「見解の統一されていない点」という意味で使う人が一人でもいると、ミスコミュニケーションの発生確率がめちゃくちゃ上がる。

結果として、読むとなんか「はいはい、そーゆーことね」と分かったつもりになるものの、厳密な運用に耐えない&現場のコミュニケーションがハイコンテクスト化するため、実践でつまずく人が増える、という問題が生じているように思う。(言いがかりだったらごめんなさい。)

コミュニケーションがハイコンテクスト化すると、偉い人による「俺が考えてること当てクイズ」が発生して知的に誠実で開かれた議論を行う文化が形成され難くなるため、こうした「何かいい感じに本質的な議論ができてるっぽい雰囲気を醸す一方で、その実、弊害の方が大きい」類いの表現は根絶していきたい。