puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

「理」から外れる

世の中に溢れている「クソみたいな結果」が、優秀な人々の勤勉な努力の成果であってそこに怠惰や無能のような分かりやすい原因なんてないってこと、凡庸な自分の月並みな努力や情熱もきっと同じようなクソみたいな結果を繰り返すだろうこと、そう理解したときに、それだと嫌だと思った。

評価に係る諸々③

人事考課を巡って議論や対話をしていると、「自分は偉い人に認められてる/褒められてるのに何故こんな評価なのか?不当ではないか?」という疑問を持つ若者が少なくない。が、「偉い人」ってのは組織を元気にするために、図らずも得ている権威や影響力を最大限活用するもので、故に目一杯認めるし、目一杯褒める。そしてそれは、その褒められた人の現時点での能力なんかとは、実はあまり関係がない。

 

「偉い人」から与えられる承認や賞賛に大した意味なんてないとしたとき、我々は、それらを一体どのように受け取るべきなのか?単なる偽りや欺瞞の類いであると片付けるのは、あまりに短絡的だと思う。それは現時点での能力に対する「評価」ではなく、将来に対する「期待」と捉えるべきだ。むしろそうした期待に、我々は、ちゃんと応えなければならない。

 

「偉い人」が目一杯認めたり褒めたりするのは、彼ら彼女らが、それほど必死で真剣だからだし、我々からは想像もつかないほど、共同体に愛情を持ち、そこにいる人たちの営みに特別な眼差しを向けることができるからだ。そうした孤独なリーダーに対する返報は、その人の負っている責任を引き継ぐことにしかない。期待をしてくれているその人たちより、いつか自分が一歩でも先に至ることができるか、その一点に尽きる。

評価に係る諸々②

最近、年次の人事考課の会議が行われた。

管理職たちが阿呆みたいな顔を並べてジュニアをズレた尺度で評価しているのを聞き流しながら、要所要所で尺度を正したり、あまりに酷い場合は叱ったりしていた。

 

評価というものを利益分配ゲームと看做すのは褒められたことではないが、そうした輩が少なくないというのが現実である。また、そこまで酷くなくとも、そもそも職能や職業倫理についての理解が乏しい人、他人を評価するということに宿る責任をよく理解できてない人というのが少なくない。より正確に言えば、大半を占める。

 

そうした輩を軽蔑し、正確且つ効率的に評価を遂行しようとするのは、とても大事な姿勢であり、共同体にとって大切な役割だと思っている。他人を評価することの重みを知る人は、必ず一度はこうした役割を担うようになる。しかし、それだけでは不完全だとも、最近になって思うようになった。そのような指向は突き詰めると静的な能力主義と排除に繋がる。それらは発展を妨げる。

 

阿呆みたいな面を眺め、まあたぶん伝わらないんだろうなと理解しながら、きちんと叱り、真正面から指導を重ねるのが大人の役割だと思う。公正な評価のためではなく、評価者自身の成長のために。我々はまだあまりに未完成で、それ故に間違える権利も指摘を受ける権利も立ち直る権利も与えられている。

 

才能の出現や顕在化は、確率論的な事象である。そして、発生確率にのみ目を向けるなら明らかに距離をとるべきことであるにも関わらず、それは賭けるに値するだけの価値をたしかに持つ。

評価に係る諸々①

少し前、自分は成長している/活躍している/昇進して然るべきだと宣う人が多くて、心底嫌になっていた。自分が如何に優秀かをメタに説く気持ちが、正直よくわかっていない。

 

僕は僕を評価する側に対して、大半の阿呆は阿呆ゆえに僕のことを正しく評価できないと思っているし、また、僕のことを正しく測ることができる僅かな人には、正しいことをしていれば結局正しく伝わる、くらいに思っている。そもそも卓越するとか傑出するとかってのはそーゆーことだろう。

甲斐性

自分以外の人に、自分が干渉することでもたらすその顛末に、責任を持つということ。責任というものの内実と、ともすると日常の中で薄れてしまうその重みとを、確かに感じ続けること。

他者にもその豊かな想像力を向け、それにも関わらず行動をたしかに選択できるだけの、賢明さと勇敢さとを持ちあわせていること。

あなたの才能と研鑽は遠からず結実し、あなたはまた、孤独を歩むことになるでしょう。

あとどれだけの時間、あなたの前を歩くことができるか分からないけれど、その日が来るまで、範を示しましょう。

あなたが迷わないように。願わくば、少しでも長い時間を共にできるように。

卓越と探索

「卓越性は主体的な価値定義と追求から生まれる。」

 

自分が美しいと感じるものを探索し続けなければならない。偉大な先人たちが築いた世の中にはそれがたくさんある。既知の美しさに耽溺しているばかりでは勿体無い。

 

なぜそれが美しいのか、不完全な表現であっても構わないので言葉にすべきだ。言葉が感性を研ぎ澄まし、感性が言葉を磨いてくれる。