最近、年次の人事考課の会議が行われた。
管理職たちが阿呆みたいな顔を並べてジュニアをズレた尺度で評価しているのを聞き流しながら、要所要所で尺度を正したり、あまりに酷い場合は叱ったりしていた。
評価というものを利益分配ゲームと看做すのは褒められたことではないが、そうした輩が少なくないというのが現実である。また、そこまで酷くなくとも、そもそも職能や職業倫理についての理解が乏しい人、他人を評価するということに宿る責任をよく理解できてない人というのが少なくない。より正確に言えば、大半を占める。
そうした輩を軽蔑し、正確且つ効率的に評価を遂行しようとするのは、とても大事な姿勢であり、共同体にとって大切な役割だと思っている。他人を評価することの重みを知る人は、必ず一度はこうした役割を担うようになる。しかし、それだけでは不完全だとも、最近になって思うようになった。そのような指向は突き詰めると静的な能力主義と排除に繋がる。それらは発展を妨げる。
阿呆みたいな面を眺め、まあたぶん伝わらないんだろうなと理解しながら、きちんと叱り、真正面から指導を重ねるのが大人の役割だと思う。公正な評価のためではなく、評価者自身の成長のために。我々はまだあまりに未完成で、それ故に間違える権利も指摘を受ける権利も立ち直る権利も与えられている。
才能の出現や顕在化は、確率論的な事象である。そして、発生確率にのみ目を向けるなら明らかに距離をとるべきことであるにも関わらず、それは賭けるに値するだけの価値をたしかに持つ。