puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

「問題解決」について

「問題解決」という言葉を我々は当たり前のように使うが、問題を設定するにあたって解決性を求めるほどに、扱うことのできる問題は矮小化される。


他方で、事業と人間の成長は解けるか分からない問題に、これを何とかして解こうと取り組み、知恵をしぼって成果を上げること、上げようとすることに、依拠している。経営者にとって、解ける問題のほとんどは、わざわざ解くべき問題ではない。

 

以上は、「問題解決」というレトリックのもたらす認識論的な罠のようなものだと思っている。「問題解決」を生業とする人たちは、自己規定に潜むこうした罠に自覚的である必要がある。

経験の個別性

周囲の人たちから見て学ぶというのは本当に大切だと思っている。人間は自分の置かれた苦境をユニークで孤独なものと捉えがちだが、その経験の大半は、良くも悪くも恐ろしくありふれている。我々は誰もが世界に包摂されており、この世界をただ一人で経験する必要なんてない。

 

他方で、身体的・個別的な経験が言語や意味を通じて一般性や普遍性に還元されていく中でも、それでも尚、ひとつひとつの苦境や苦悩の中に、他の誰とも分かち得ない自分だけの経験というものは確かにある。先の観念はそうした経験の発見を促す。

 

僕は科学や哲学のような営みを愛している。それは一回性の経験から普遍性を析出することで、個人を共同体に繋ぎ止めるからであり、また、それを通じて個人が本当の個別性に出逢うことを可能にするからだ。包摂と孤独は矛盾しない。

神格化

私はなんやかんやあって、自分の実力なんかとは何の関係もなく、傑出した経営者たちと一緒に働くことができているのだが、周囲を見渡すと人々は皆、彼らを神格化している。凄い、真似できない、自分たちとは違う、と言葉を尽くす。

私は、それは疎外だろうと思っている。なので、自分だけは絶対に彼らを独りにしないぞ、という気持ちでいる。それはどんな称賛の言葉より、彼らが必要としているものだと思っている。

理とその外

世の中に溢れている「クソみたいな結果」が、優秀な人々の勤勉な努力の成果であってそこに怠惰や無能のような分かりやすい原因なんてないってこと、凡庸な自分の月並みな努力や情熱もきっと同じようなクソみたいな結果を繰り返すだろうこと、そう理解したときに、それだと嫌だと思った。

評価に係る諸々③

人事考課を巡って議論や対話をしていると、「自分は偉い人に認められてる/褒められてるのに何故こんな評価なのか?不当ではないか?」という疑問を持つ若者が少なくない。が、「偉い人」ってのは組織を元気にするために、図らずも得ている権威や影響力を最大限活用するもので、故に目一杯認めるし、目一杯褒める。そしてそれは、その褒められた人の現時点での能力なんかとは、実はあまり関係がない。

 

「偉い人」から与えられる承認や賞賛に大した意味なんてないとしたとき、我々は、それらを一体どのように受け取るべきなのか?単なる偽りや欺瞞の類いであると片付けるのは、あまりに短絡的だと思う。それは現時点での能力に対する「評価」ではなく、将来に対する「期待」と捉えるべきだ。むしろそうした期待に、我々は、ちゃんと応えなければならない。

 

「偉い人」が目一杯認めたり褒めたりするのは、彼ら彼女らが、それほど必死で真剣だからだし、我々からは想像もつかないほど、共同体に愛情を持ち、そこにいる人たちの営みに特別な眼差しを向けることができるからだ。そうした孤独なリーダーに対する返報は、その人の負っている責任を引き継ぐことにしかない。期待をしてくれているその人たちより、いつか自分が一歩でも先に至ることができるか、その一点に尽きる。

評価に係る諸々②

最近、年次の人事考課の会議が行われた。

管理職たちが阿呆みたいな顔を並べてジュニアをズレた尺度で評価しているのを聞き流しながら、要所要所で尺度を正したり、あまりに酷い場合は叱ったりしていた。

 

評価というものを利益分配ゲームと看做すのは褒められたことではないが、そうした輩が少なくないというのが現実である。また、そこまで酷くなくとも、そもそも職能や職業倫理についての理解が乏しい人、他人を評価するということに宿る責任をよく理解できてない人というのが少なくない。より正確に言えば、大半を占める。

 

そうした輩を軽蔑し、正確且つ効率的に評価を遂行しようとするのは、とても大事な姿勢であり、共同体にとって大切な役割だと思っている。他人を評価することの重みを知る人は、必ず一度はこうした役割を担うようになる。しかし、それだけでは不完全だとも、最近になって思うようになった。そのような指向は突き詰めると静的な能力主義と排除に繋がる。それらは発展を妨げる。

 

阿呆みたいな面を眺め、まあたぶん伝わらないんだろうなと理解しながら、きちんと叱り、真正面から指導を重ねるのが大人の役割だと思う。公正な評価のためではなく、評価者自身の成長のために。我々はまだあまりに未完成で、それ故に間違える権利も指摘を受ける権利も立ち直る権利も与えられている。

 

才能の出現や顕在化は、確率論的な事象である。そして、発生確率にのみ目を向けるなら明らかに距離をとるべきことであるにも関わらず、それは賭けるに値するだけの価値をたしかに持つ。