師曰く、
「20代で借り物ではない自分自身の理想を見出し、30代でそれを現実からの挑戦に晒して正しく絶望し、そうして初めて40代以降の、馬鹿みたいに長く苦痛な戦いに臨む準備が整う。
理想を見出せる人間は限られるが、最後まで足掻き尽くせる人間はその中でもほんのひと握りだ。
正しく絶望し切りなさい。」
すべての変革が現状の否定である以上、それをやり遂げるうえで、挑戦と苦難とは避けて通れない。現状にはそれを形作る「合理」がある。その均衡を破るのは容易なことではない。
苦難が必然であるならば、追求すべきは、その軽減やそこからの逃避ではなく、変革から獲得できるものの方である筈だ。「どんな問題を解くのか」という問いに対して、我々はもっと真剣にならなければならない。
その問題の解決は社会の厚生の拡大に繋がるか。歴史の転換点に立ち会えているか。対峙する相手は、自身の稀少な人生の時間を捧げるに値するか。主観的な価値定義を以て初めて、「合理」の枠から抜け出すことが可能になる。
既存事業の、そしてそれが位置する市場や業界やバリューチェーン全体の、適正化と高度化とに取り組むべきだ。そうした問題解決を成し遂げることと、そうした問題解決に取り組める人たちと信頼関係を築くこと。このふたつこそが、変革に伴う苦難に見合う報酬だと考えている。
若い優秀なマネージャーから「ジュニアに既に出来ることだけをやらせて褒めそやし、一切のネガティブフィードバックをしない「やさしい」マネージャーが人気を集め、適切なチャレンジを与えたうえでネガティブフィードバックを通じて成長を支援するマネージャーがむしろ忌避されている。私自身は「あなたはきつい」「もっとやさしい上司の下で働きたい」と言われた。ジュニアや組織のことを真面目に考える自分が馬鹿みたいに思えてきたので、方針を変えたいと思うのだが、どうすべきか?」と相談された。
まず、ネガティヴフィードバックとはそもそもの内容が何らかの現状否定なので絶対に心地良くはない。しかし、それと独立に、受け取りやすい伝え方を追求することはできる。更に内容面でも、問題意識の涵養にあわせて受け取り易いタイミングで提供することができる。「きつい」と言われる場合に、それが純粋にそのタイミングで直面して然るべき内容面についての感想なのか、不純物則ち、伝え方やタイミングについての感想なのかは慎重になるべきと思う。前者であれば、そんなことを主張する人は相手にする必要がないが、仮に後者なのであれば、そこにはまだ改善する余地がある。水が低きに流れることを嘆くのは、全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない。
他方、フィードバックをする側にそうした労を強いるということは、フィードバックされる側にはそれに見合うだけの価値が求められるということを意味する。高品質な環境を求めるのであれば自身も高品質である必要があるし、逆に、低質なものには低質なものがあてがわれる。このような「質」とその背景にある「選好」の多様性こそが市場経済の良いところで、市場に参画する人たち全員の効用を最大化するように、お互いの選好が合致するまで流動性を高めるべきと思う。
なお、僕はこの業界で考え得る限り最高のフィードバック環境を提供しようと思っている。チームに所属する人たちにはそれに見合う姿勢を求める。
「メンタリング」は、「教える-教えられる」というある種の権力構造が容易く手に入ってしまう営みである。そうした権力性を(自分でも自覚しないうちに)好んでメンタリングに執着する人が一定数いるように思うが、自分を厳しく律しなければ、自身を含め、関わる人すべてを不幸にする。以下の3点を肝に銘じるべきと考えている。
1.自身の問題と捉える
後進の育成が役割として与えられている以上、そこで問われているのは、ジュニアの人格と技術ではなく、育成を施す側であるメンターの人格であり技術である。
2.職能及び職業倫理に依拠する
全人格的・全領域的な優劣などというものは現実に存在しえない。他方で、職能及び職業倫理の範囲においては、明確な尺度が存在し得る ※「ダイバーシティ」の錦の御旗の下で曖昧にされているが、これは多元的な価値の尊重と両立し得る。
3.そのうえで、そもそもが分不相応な使命だと心得る
メンティーの心技体は個体差が非常に大きく且つ流動的でもあるため、徹底的な最適化などできないし、また、多くの場合メンター自身も未成熟である。そもそも人を「育てる」などと軽々しく語るべきではない。
また、自律的な個人同士の営みである以上、相手の人生への干渉には敬意と恐怖を持って臨まなければならない。
「メンタリング」に対する認知が高まり、その普及が進む一方で、技術や形式ばかりが先行して規律を欠いた実践が広まるのではないかという不安を抱いている。一日も早く形式的な普及が完了し、規律にまで踏み込んだ質の面での競争へと移行することを願っている。
以前の投稿で、「問題解決という営みは、「適切な問題」の発見も射程に入れる必要がある」と書いた。そしてその問題解決を職能として修めるのであれば、問題発見についても形式知化し、可能な限り再現性を高める努力が必要だと考えている。
たしかに「適切な問題」を特定するアルゴリズムを組むのは困難だろう。しかし、最低限満たすべき要件や思考手順というものは、クライアントの置かれている固有文脈とは独立にある程度明文化できる筈である。抽出された任意の「問題」に対して、それが「適切な問題」かの評価の効率と安定性を高めることはできる。
1.基本は「最適化」
「問題」は「事実認識」と「価値基準」の照合から導かれ、メカニズムやリソース制約を加味していくことで現実に刈り取れる効果が低減していく。
企業活動は「外部環境に対する内部環境の適応」なので、我々が検討の中で語る「効果」は「最適化余地」と捉え直すことができる。従い、「広義の最適化計算を誤りそうで、且つ、最適化計算を実行できそうなところ」を抽出しようと心がけるべきと考えられ、具体的には、以下のいずれかの外形的特徴を持つ筈であ。
2.「変化」を掛け合わせる
但し、①-③のいずれも平時であれば基本的には潰し込まれている(少なくとも全体最適にはなっている)場合がほとんどであり、一見最適化余地があるように見えたとしても注意する必要がある。
例えば、相手が職能制組織の長である場合、職能制組織を横断した視点を提供することで最適化を促せる可能性がある。一方で、収益責任を負う事業部長クラスになると、市場と自社組織との適合、及び、職能性組織間の最適化については現有の体制を前提とすると既に追求しきっている場合が多い。
故に、「平時」の裏返しとして、「PESTのいずれかで、大きな変化が生じていること」を追加の条件とすべきと考えられる。
例えば、「スマホが普及したことで購買行動をユーザー個々人に最適化できるようになった」、「コンピューティングリソースが廉価になったことで大規模演算が回せるようになった」、「DXやカーボンニュートラルが共通言語化されたことで当該テーマでの資金調達/予算獲得が容易になった」、等が挙げられる。
「何故既に為されていないのか?」に対する答えが「怠惰だから」「考えが足りないから」を言い換えた表現になっていないかを自分に問うてみると良い。もしそのいずれかになってしまっている場合、一見可能性が大きそうに見えても、掘り進めていくうちに効果の低減率は確実に大きくなる。
3.条件を充足するよう「系」を拡げる
上記のような「最適化の難易度」と「変化の有無」の二つの観点で、最適化余地を探索することになるが、探索対象となる「系」の中に両者を満たすものが見出せない場合、「系」を拡げることが必要になる。ここでいう「系」は「①ドメイン」と「②時間軸」から成り、それぞれを変数と見做して操作し、最適化余地を考える。
①ドメインを拡げる;
たとえば、ある製造販売事業の提供価値の定義が問題となったときに、「製造販売だけではなくてデータを用いたソリューション提案、更には顧客のビジネスプロセスの取り込む」などのように問題を再定義することが当たる。ただし、範囲の経済性が高い水準で見込まれる/拡げた先で先行者に優る論理が説明できるかを問わねばならない。
②時間軸を拡げる;
今この時点ではどうしようもなくても、時間軸を伸ばせば、何らかの投資とそこからの効果の刈り取りを期待することができる。但し、長期を見据えたデカくて正しい投資には、取締役会の意思決定能力が高く保たれているなど、いくつかの条件を満たす必要があり、そこまで考慮しないと絵空事になる。また、市場の単位で見れば長期的に収斂する方向性(トレンド)に関して見解の相違が生じることは殆どなく、トレンドを認識した上でどのようにその追求を実現するかが実質的な論点になるため、トレンドの提示だけで勝負しようとすると痛い目を見る。
4.それでもどうしようもなかったら、、、
以上のようにジタバタ足掻いてみても取り組むに値する最適化余地に仕立てられない場合、前提している制約条件を取り払う(「価値基準」もしくは「リソース制約」を改める)か、さもなくばそもそも問題解決の対象自体を変える(「事実」を改める)ことになる。
このように書くと残念なことのように思えるが、以上のプロセスを即座に実施し、そこから次に取るべき行動を導出することができれば、本来時間を割くべき「適切な問題」に正しく時間を割ける確率は上がると思っている。