puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

「センス」で片付けない

いつだったか、入社数ヶ月のジュニアが阿呆なシニアから「君には定量分析の素養(センス)がないから定量分析は諦めて他で戦うことを考えるべき」と言われたと嘆いていた。

 

最初に立場を明示しておくと、この手の発言はすべて無視して良いと思っている。(収奪側のポジショントークか、良くて当人のコンプレックスの開陳なので。)たしかにその時点での素養の有無によって習熟速度に差は出るだろうが、どんなに遅くとも理屈を理解した上で2~3ヶ月も正しく経験を積めば、所謂「人生の問題」を抱えていない限り、業務で求められる水準には至る。最終的な到達点に差が出るのは事実だろうが、そもそもの習得の可否に素養が問われるほどの高尚な技術なんて、この職業では端から扱っていない。

 

最近も定例報告のストーリーを書くことに苦手意識を持つジュニアと一緒に仕事をしたが、掘り下げてみると、前職で「センスがない」と言われ続けて苦手意識を強め、何をどう改善したら良いかわからなくなっていた。「聞き手の気持ちを想像しろ」とか「切れ味鋭い言葉遣いにしろ」とか指導されていたらしい。

 

「ストーリー」というと何か特別なものを扱っているように錯覚するが、定例報告で扱うストーリーは、基本的に、①SCQ、②A+「論証の手順(構成要素の一覧化→要素間の関係性整理→要素の絞り込み)」に準拠したAの論拠の提示、というステップから構成される。そして、論理(ロジック)にのみ着目して上記を構成した上で修辞(レトリック)を磨くのが基本的な作成プロセスになる。このようなプロセスにしたがってアウトプットの要件を満たしていけば、依然拙いところは残ったとしても、微細な修正で済むレベルには至る。

 

一方、こうしたアウトプットの要件とプロセスを共有しないまま「聞き手の気持ちを想像する」といった姿勢を提示しても、せっかく想像した内容をどのようなプロセスやアウトプットに落とし込めば良いかについては認識がズレ続ける可能性が高い。

また、言葉遣い(ワーディング)にも、「定義の曖昧な語の使用や定義の誤解により論証が破綻している」といった論理の問題と、「聞き手にとって馴染みが薄い/動機付けとして弱い表現である」といった修辞の問題とがあり、いずれかを明示して指摘しないと、例えば論理の問題の際に修辞を磨くことに時間を溶かすことになりかねない。

 

正しく言語化に努めればそれほど難しいものでない筈だが、自身の扱っている情報処理をセンスで片付ける輩は、このようなアウトプットの要件とプロセスを自身にも周囲にも提供しない。「センスが良い」というのも、結局は「求められるより前にたまたま十分な成功体験や経験量に恵まれていたことで技術が成熟している」という巡り合せに過ぎず、表現を変えれば単なる早熟なので、いつかは早熟ボーナスが切れる。現有の技術水準で対応できない場面に直面した時、その状況で成果を上げるためにも自身の扱う情報処理をアウトプットの要件とプロセスという形で記述する労は惜しんではならない。

 

「センス」という言葉で片付けるのは簡単だし、そうしたい誘惑に駆られる背景も理解はできるが、そうした態度は自身にとっても後進にとっても、あまり良い習慣と言えない。「できている」ということに慢心せず、殊更に特別視もせず、ただ「より良い状態」を目指していくべきだと思っている。