puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

「問題・課題・打ち手」

経営コンサルティングの仕事は、クライアントの置かれている固有文脈に根差した問題解決をサービスとして提供する。この仕事は、カスタマイゼーションの程度を高めることで得られる効用の非線形な伸びをバックボーンとしており、それゆえに、一品モノ生産の性格を色濃く残している。一品モノ生産であるにも拘らず安定的に高い生産性を誇るには、共通項である「問題解決」が技術として修められていなければならない。

しかしながら、この「問題解決」の作法は、咀嚼しやすい大きさにパッケージングされた断片的な知識として市場で流通しており、それぞれで用いられている概念/表現にも揺れが存在するため、根幹にあたる知識体系を習得しにくくなっているように感じている。また、有力な体系として7 Stepsのような強力なツールもあるものの、実際に運用しようとしてみると、依然ハイコンテクストだと感じる。

そのような問題意識から、僕のチームでは以下のような体系を用いている。

 

プロセスの記述

あらゆる戦略策定の中心的な問いは、煎じ詰めると「どのような目的と見通しの下、明日から何をすべきか」に行き着くが、そのような「打ち手」について論じる前に、「問題」「課題」の二段階を明示的に扱うことで、打ち手の妥当性(目的合理性)について、体系的な意思疎通が可能になる。

更に、「問題」「課題」「打ち手」を導出するために必要な要素を定め、それに則って処理することで、安定的・効率的な実行と意思疎通が可能になる。

「問題」は、「事実認識」と「価値基準」から、二項の対比・照合によって導くことができる。価値基準に照らして初めて、望ましくない事象、即ち「問題」が特定される。

  • なお、「価値基準」という独特な表現を用いたのは、一般に用いられる語を用いることのデメリットが大きかったからだが、独特な表現を用いていることのデメリットも自覚しているため、より適切な語が見つかればそちらに乗り換えると思う。
  • 念のため言及しておくと、「問題」の特定の文脈ではしばしば「理想」という表現も用いられるが、望ましいものに限らず、望ましくないもののみが明らかになっていてそれと現実とを照合する形で「問題」を特定したいシーンが少なからずあるため、不適とした。
  • また、「価値観」でも良かったが、既に一般的な用語として人口に膾炙していて、あまりに軽々しく用いられている一方で、その語感から私的な領域のものと捉えられて議論の対象とするのに抵抗を覚える人も出ると考えたため、敢えて避けた。

「問題」から「課題」を導くには、望ましくない事象をもたらしている「メカニズム」を記述したうえで、「投資対効果」を加味して、「メカニズム」を構成する要素のいずれに介入すべきかを特定する。

  • 発生メカニズムは、単線的ではなく循環する場合も珍しくないが、このような場合にも対応しようとすると、メカニズムの表現方法はインフルエンスダイアグラムが適切と考えられる。
  • このインフルエンスダイアグラムを構成するすべてのノードに有効な介入を行うことはほとんどの場合でリソース制約から現実的ではないし、また、必要でもないため、所期の成果を上げるために必要最小限の介入ポイントを特定する。
  • ここでは、個々の要素単体で解決性が高いことに加えて、一般に「センターピン」と語られるように、他の要素に連鎖的に影響を与える等で目的変数に対して効きの大きい要素を特定する。そのような評価を「投資対効果」と表現している。

「課題」が特定出来たら、それを具体化したうえで、各断面で拠出可能なリソースを加味しながら時間軸上に配置する。

 

「問題解決」における位置づけ

このように記述してみると、各工程でのインプットになる要素のうち操作可能なものは、このプロセスの実行効率を除けば、唯一「リソース制約」のみであるため(、そしてそれにも往々にして限度があるため)、問題の解決性は予めその上限が決まっていることが解る。こうした限界は検討を始めた段階では明らかではないが、検討を進めて各種の情報が具体性を増すに連れて明らかになっていき、その裏返しとして、当初設定された「問題」に取り組むことの想定効果は低減していく。具体的には、「問題解決時の効果の見積もり」に、「メカニズム加味による主に物理的な低減率」と「リソース制約加味による低減率」とが加味されることになる。

問題解決に自覚的に参画したことのある人なら誰もが経験するであろうこの効果の低減は、決裁者をはじめとしたステークホルダーに失望感を与え、その取り組みのモメンタムを削ぎ、下手をすると将来の取り組みの足枷にもなる。故に、「問題」を設定すると同時に、粗くても良いので一通り解ききり、その問題の解決性が十分に高いのか(低減率が許容できる範囲のものなのか)を見極めることが重要になる。

つまるところ、「問題解決」という営みは、問題を所与としてその解決を図ること(即ち、上記プロセスを単に実行すること)に閉じている限りは不完全であり、効果が大きく且つ後工程での効果の低減幅の小さい「適切な問題」にたどり着くまで上記プロセスを高速で繰り返すところまでを射程に入れなければならない。

 

プロセスの活用

“適切な問題”が設定できたならば、残りは処理精度の問題のみが残る。品質を担保する(=提案の成功確率を向上する、もしくは、デリバリーリスクを低減する)ために、以下の問いをクリアするべきと考えている。

  • 問題:明晰な記述になっているか
    • 事実:組織外のことはもちろん組織内のことであっても実際に何が起こっているのか正確には把握できていない。
    • 価値基準:信頼関係が築けていない相手に対して人は本音(本当に大切にしたいもの/許せないもの)を明かさないし、人は案外自分の本音をわかっていない。
    • 以上のような理解を欠き、インプットのいずれかが欠損もしくは明晰さを欠いた状態で検討を進めた場合、打ち手が導出された後、投資の意思決定を迫る場面に至ってブレる。
  • 課題:本質に迫った新規性のある記述になっているか
    • コインフリップ(問題の裏返し)で導びかれた課題は、大概が既に試されている。
    • それにも関わらず問題が問題のまま残っているのだとすれば、そこには何か理由がある筈である。
    • カニズムの記述自体の新規性か、外部環境要因(PEST)の変化に伴う投資対効果の変化によって説明できることが望ましい。
  • 打ち手:各打ち手の位置づけは明確か
    • 打ち手が突飛なものになることは稀だが、往々にして位置づけには明確にする余地が多く残されている。
    • 位置づけが明確であれば、振り切ったリソース配分や追加投入/撤退の判断が可能になるし、内外の環境変化を受けて打ち手を改めることができるようになる。

 

論点・仮説との接続

以上のように、扱う事象の側の効果と解決性を「問題・課題・打ち手」の情報処理プロセス側に切り出すことが出来たため、「論点」を「見解が統一されていない点」と単純に定義して扱うことが出来るようになる。上述のプロセスを構成する要素の中から、見解が統一されていない要素を特定して論点として設定する。

そうした論点に対して、いちいち調査を積み上げ、その結果から主張を組み立てていると、速度はもちろん品質も低迷するため、予め仮説を立て、その検証を繰り返すことで答えと論証の精度を高めていく。

 

最後に

以上のように、僕は「問題・課題・打ち手」と「論点・仮説(とその検証)」とを切り分けて扱っている。「問題解決」の主流の方法論(※1)からは外れているが、チームで問題解決を行う上で重要になるコミュニケーションの精度と効率は向上しているように感じている。一方、依然として試運用段階にあるため、概念の整理や適語の探求は続けていきたいと思っている。

 

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※1 それに関する罵詈雑言は別途記す。

組織における多様性

「多様性は成長をもたらす。従って促進すべきである。」との言説をしばしば目にするが、強い違和感を覚えている。

 

まず、以前にも書いたが、多様な価値観や趣向や能力のバラつきは本来それ自体尊重されるべきものであって、「組織の成長をもたらすが故に重視される」のではない。この論理を認めてしまうと、組織の成長に寄与するという効用が認められなくなった途端に、多様性自体の重要性が否定されることとなる。実利的な観点からの誘惑に駆られようと、このようなナラティブは決して用いてはならない。

 

また、多様性の促進が成長を齎すのではなく、成長が組織内の多様性を許容する。通常、多様性の追求は効率の低下をもたらし、合理性の追求と逆行する。多様性の高い組織であることを目指すなら、対外的な提供価値の幅を拡げたり内部プロセスを再構築したりして、組織内で必要とされるスキルの多様性を高めなければならない。前者は新規事業、後者は分業と専門化に等しく、成長を志向することや規模を拡大することの先に初めて、多様性は合理性と両立できる。それらを欠いた状態で多様性を謳うことには欺瞞がある。

 

合理性が損なわれているにも関わらずそうした現実に向き合うのを怠っていると、合理性の毀損分は「多様性」側にない誰かが負担することになり、組織の分断を促す。故に、多様性と経済合理性とを両立し得る戦略不在のままでは、いずれどこかで調整局面に入る。本質的に価値あるアイデアであってもタイミングを誤ったり作り込みを怠ったりして一度失敗すると、その失敗の記憶が組織の足を引っ張って改革を妨げる。価値あるアイデアこそ丁寧に実装されなければならない。

 

それ自体に価値のある多様性の追求のためにこそ、成長を志向すべきであり、それを成し得る内実ある戦略が求められていると思う。

独学のすゝめ

意識的な学習は、①理論の理解→②メンタルモデルとの突合→③メンタルモデルに即した行動の矯正、という手順を踏む。セミナーへの参加等で①に取り組みこそすれ、殆どの人は他人の言葉で語られた理論を自身の思考体系に取り込む②の労を払わず、見ていて勿体ないと思う。

 

どんな理論(というほど仰々しいものではなく、いくらか体系化された考え方なことが殆どだが、一旦理論とする)もそれなりに練られているので内部に不整合を抱えていることはそんなになく、よって、批判的思考に長けていない限り、説明を聞いただけでは違和感は生まれない。が、自身のメンタルモデルと突き合わせてみると色々不整合は出る筈なので、この突合を即座にできるかがまず重要になる。

めでたく不整合が検知されると「間違っているのは自分のメンタルモデルの側か新しく取り込もうとしている理論の側か」という疑問に直面することになる訳だが、この疑問に答えるには、自分のメンタルモデルを含め、齟齬をもたらしている言葉の定義を問い直すとともに、複数の理論を比較検討することになる筈で、この労を払うことが決定的に重要だと思っている。ひとつ前の関門と比べても、こちらで挫折する人が圧倒的に多い。

 

特に、経営コンサルティングのサービスで必要とされるような抽象度の高い認知スキルを身につけようとすると、この意外と煩雑な②を集中的に実施する必要が高くなる。わざわざこんなジョブセキュリティの低い業界に望んで入ってきている人たちなので、ほとんどの人が「向上心」を自認して①には積極的だが、おそらく、ものを学び習得するというプロセスに対する理解が不足していることと、学ばなければならないことが多岐に渡りすぎていて選択と集中を妨げる口実が潤沢なことが原因で、②を疎かにしがちであると感じている。

 

そんな中でも②に取り組む一握りの人たちは、向上心というよりは潔癖症とか責任感とかなんらかの衝動故に已むに已まれず取り組んでいるように映る。「情熱は偽れるが狂気は偽れない」を実感する。

経済合理性と倫理

ソフトウェアエンジニアリング業界で生まれた組織運営のプラクティスは、一定の条件を満たす組織において、道徳の実践が経済合理的でもあるということを立証した。これ自体は素晴らしいことであり、技術の進化とそれに伴う競争が加速する一方の資本主義社会において、従来外部化されがちであった道徳が少なくとも形の上での実践において内部化されたという意味で、エポックメイキングだとさえ言えると思っている。

 

しかしながら、道徳の追求を経済合理性の下で正当化することには、極めてグロテスクな論理的帰結が伴う。経済合理性の追求を最上位に据えても一見成立する体系化に慣れてしまうと、一度それが崩れたとき、もしくは、それが両立しえない範囲に対して、我々は倫理を容易く放棄することになる。あくまで倫理が先行して存在し、それを具体的な実践に落とし込むに際して、従来直面していた「経済合理性への逆行」という阻害要因が取り払われた、という図式を堅持しなければならない。

 

多様性や個人の尊重という重要な概念を取り巻く昨今のナラティブに、多大な不安を覚えている。

収益モデルを用いるプロジェクト

経営コンサルティングのサービスでは、収益モデルを組んでそれをベースに議論を深めていくことが多い。このような議論では、定量化と分析の結果それ自体が重要になることもあるが、他方で、無理矢理モデル化・定量化する過程で事業の本質に対する理解の深化に意味が宿る場合も多い。

この事業の本質的な提供価値・競争力は何なのか、どこまでの単純化なら許容できてどこからはできないのか、何が一過性の流動で何が不可避の分散なのか、一過性の流動はどのような形に収斂すると想定するのが妥当なのか、を否が応でも明文化することになる。

広い意味でのチームでの実践に関して、留意すべきことがいくつかある。

 

クライアントとのプロセスの合意

クライアントのニーズにも、最小限の負荷で定量的な判断を行いたい場合と、市場や事業について理解したい場合とがあるだろうし、いずれかを特定してプロセス自体の設計をしないと大変なことになる。

クライアントが自身のニーズの配合比率(判断と理解を何対何の比率で欲しているのか)についての客観的な感覚なんて持っていたら気持ち悪いし、増してや、その比率に適したプロセスの設計なんて特殊な職能になるので、判断を委ねるのは往々にして悪手になる。従い、最善の案を作った上で、それまでに築いた信頼を担保に任せてもらうしかない。

 

チーム内での役割分担

理解に主眼を置く場合、定量化の技法への習熟が進んでいようとも恐らくジュニアなメンバーでは担いきれないので、本来的にはマネージャー以上のシニアがモデルを組む必要があり、何らかの事由でそれが難しい場合には、チーム内コミュニケーションのあり方を工夫する必要がある。

チームの誰ならどの程度の判断までできるかの見極めは、チームメンバーそれぞれの成長と、判断の難しさについての記憶の劣化という2つの変数によって容易に誤るのが難点になる。前者についてはある程度保守的に見込んでおいた上で、後者については少なくとも年に一度くらいは自分でゼロから組んでみて感覚を保つのが妥当か。

 

Integratorの仕事

事例を調べてもそこから抽象化したモデルを作れず、事例をそのまま提示することしかできない人がそこそこの割合でいる。事例をどれだけ積み上げても固有文脈を踏まえた提言にならないので、integratorとして機能しているとは言えず、単なる調査のオペレーション代行をしていることになる。

 

経営コンサルティングにおけるintegratorの仕事は、大雑把に記述すると、①具体的な事象の観察から一般的な法則をabductionで導き、②その妥当性をinductionで示し、③固有文脈を前提条件として与えた上でdeductionで結論を導く、という3つのステップから構成される。ベーコンやパースではないが、科学の科学たる所以は①と②にあり、科学的な環境理解と意思決定のためには、効率を優先して事象の観察と法則の導出を怠ってはならない。

 

悲しいことに、最近は働き方改革で短期的な効率を求めた結果、①②を省略する傾向がある。とりわけジュニアが関与することは非効率と(本人からも組織からも)見做されて忌避される傾向があり、僕はそれが冒頭の問題をもたらしているのでは、と思っている。

 

目先の効率重視に振り切ったときにそうなるのは理解できるものの、時間軸を少し伸ばした場合は①~③全ての習熟を優先した方が合理的だと思う。一連のプロセスを素早く精度高く実行できるようになると、初見の情報であっても安定して付加価値が出せるようになり、結果、クライアントやテーマやチームといった環境条件に左右されにくくなって、仕事がだいぶラクになる。

 

ただし、プロセスの成熟にかまけてabductionを受け身で実施するようになるとoverfittingでクソのような法則を導くので、知覚と感性を動員して主体的な情報取得に努めること、abductionの結果をクロスチェックするために累積思考量を追求すること、の重要性は、強調してもし過ぎることはない。

 

出来ることと望むこと

人は自分の出来ることの範囲でしか望むことをしなくなる。一方で、自分の出来ることは望むことに制約される。そうして留まり淀み退縮する。

 

一度、出来ることをすべて出力しきってみて、その総体と全量を目の当たりにしてみるべきだと思う。もしそれで満足できるなら、それはそれで良し。

 

この度出力し切ってみて、たしかに、ある程度の練度に至ったという自負も得たが、哀しいことに、本当にこの程度しか蓄積できなかったのかという寂寥感が優った。新しいことに挑戦しなければ。