puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

折れないために

雑感。周囲に心身の不調を訴える人が多くなってきたことから、何かの参考になればと考えて。

 

「自分」というものは極めて流動的であやふやで、環境の前では脆く頼りない。自己を構成する肉体や精神は常に外部からの刺激に晒され変化している。細胞は入れ替わるし、記憶は失われたり改竄されたりする。性格と呼ばれるものも刺激に対する情動のパターンに過ぎない。変化の速度は緩やかでも、いずれも絶えず変化し続けている。

 

ただし、外部環境によって完全に規定されている訳ではなく、身体動作や認知を変えることで肉体や精神への影響に干渉することができる。どうにもならないことだらけだが、僅かながらどうにかできることもある。そして、本当に大切なものは、案外この僅かな範囲に収まる気がしている。

 

身体や気分の状態を知覚したり、少し抽象的な操作が必要になるが身体動作や認知の在り方(傾向/パターン)を振り返って、たとえば悪癖や反芻思考の頻度が上がっていることを察知したり。これらは技術であり、自己を曖昧で流動的なものとして許容しさえすれば、自覚と訓練で手に入れることができる。

 

ただ、いかに技術を研ぎ澄ましたところで、些細なことで気分は上下するし、往々にして習慣の前には意思は厚さも強度も足りないし、瞬間的にでも無理をすれば揺り戻しがきて長続きしない。自分のことすらよく分からないのだから、他者のことや世の中の仕組みのこととなれば、尚のこと、意思決定は所期の結果をもたらさない。そんな感じで、たしかになんとも非力でなんとも情けないことだらけだが、少しばかり巨視的に、敢えて解像度低く見てみれば、よたよたと脇道に逸れたりしながらも大切にしたいものに向かって歩みを進めることはできるのではないか。

 

いまのところ、僕は自己をこのような長期的な志向と捉え、現有の身体や認知や情動のパターンもそのvehicleだと捉えている。そうした理解に立ったうえで、一方で志向を明瞭にし、他方で、少しずつではあるが、複雑で流動的な身体や認知と外部環境との適応についてエンジニアリングしている。心身の両面で非常に負荷の高い仕事を続けているが、それにも関わらずメンタルが潰れないことと、このようなメンタルモデルを持っていることとは無関係ではないような気がしている。