puttinpuddinのブログ

コンサルタント見習いの仕掛かり作業

意見を述べる

昔一緒に働いたマネージャーから「クライアントに考えを伝えるときには「〜と思います」ではなく「〜と考えられます」と言え。」と指導された。曰く、コンサルタントは事実と論理によって紡がれた提案を伝える職業なのだから、と。

 

この考え方は基本的には正しいと今でも思っているが、当時から職位が上がる中で若干の複雑化も実感している。というのも、事実と論理だけでは選択肢が絞り込めなかったり、一見絞り込めているようでも納得しきれなかったりする場面がそれなりにあり、そのような場面でもクライアントは意思決定をしなければならない。そんなとき、「どのように考えられるか」ではなく「あなたならどうするか」が問われる。

 

この問いに答えるときには、「〜と考えるのが妥当です」「〜と思っています」「〜と信じています」「私は〜」といったように判断の主体をあくまで自分自身に置いた表現を用いることになる。

 

これらの表現を用いようとすると分かるが、事実や論理を超えた自分の意見を述べることには、確信と勇気を要する。論じている事象の背景にあるメカニズムやクライアントを取り巻く諸条件を本当に正しく理解し正しく処理出来ているか、自分の直感や価値観は信じるに値するものか。自分自身で全ての結果を受け止められるならともかく、どれだけ足掻いても意思決定の一義的な責任を取ることはできない。所詮は一意見に過ぎないとどこかで醒めた理解をしつつも、他人様の人生に干渉するのは改めて怖いことだと痛感する。

 

「私には適性がないと思う」と、あるとき同僚から相談された。曰く、見解を求められた際、胃がキュッとなって言葉に詰まってしまう。他の人は平気そうに応答しているのに、と。

 

事実と論理で詰める範囲をできる限り押し広げ、紡がれた結論に確信を持てるか自問する。そして、どれだけ努めても最後に残る直感や価値観の世界に向き合う。正直しんどい仕事であり、手を抜いてしまいたくなる。それを許さないのは、他人様の人生に干渉する怖さ以外にないだろう。怖さを忘れず、また慣れることもなく、このプロセスを繰り返す先に、職業人としての成熟があると思っている。これが真であるなら、同僚の悩みはむしろ適性の証だと言える。